傘職人・林彦太郎氏インタビュー

傘職人・林彦太郎氏インタビュー

こんばんは。HOUKOです。
今日は大阪市天王寺区にお住まいの傘職人、林彦太郎さんにお話を伺ってきましたので、
その報告をしたいと思います。

彦太郎さんは大正10年生まれで、御年90才。
去年まで和歌山で傘屋さんをされていたそうです。
昨年12月に気仙沼でワークショップを行った際、たくさんの素敵な傘をご提供いただきました。
そのご縁もあって、今回はお宅にお邪魔し、当時の傘づくりのことを教えていただきました。

彦太郎さんは大阪の阿波座がご出身。傘屋さんの息子として生まれ、
小さい頃から傘をつくる環境の中で育ったそう。
傘の生産は分業で、たくさんの職人の手を経て完成するという話はよく聞きますが、
やはり阿波座でも卸問屋をはじめ、骨屋さん、生地屋さん、ろくろ、はじき、天紙その他様々なパーツをつくるメーカーから部品を仕入れ、傘の組立てを行う仕事をされていたそうです。

 


傘生地は、やはり山梨県の富士吉田。上等のものは西陣織。
ナイロンやポリエステルといった化繊が出回るまでは木綿か絹だったとのこと。


こちらは、生地を裁つカッター。裁ち包丁と呼んでおられました。
はじめはもっと刃が長かったそうですが、使っては研いでいるうちに、この長さに。
やはり、長年使い込んだ道具。ずっしり重みを感じました。


こちらは、ハトメで骨と骨をジョイントする際に使う道具。
傘専用の道具を次から次へと見せていただきました。どれもこれもかっこいい…!

最初の写真にもありますが、このかわいいミシンも傘専用のもの。
よく見ると端を折って縫うためのしかけが!
今、日本にこのミシンは一体何台残っているのだろう。とても貴重なものを見せていただきました。

彦太郎さん曰く、少し前までは傘職人が至る所にいたそう。分業もしっかり成り立っていた。
昭和50年代後半から、生産が徐々に中国に移ったけれど、それでも丁寧に作られた傘の需要はあっただろうし、壊れた傘を修理する仕事も多かっただろう。

「いくら作っても、納得のいく傘はなかなか作れない。
これだ!と思う傘は、一生で一本作れるかどうか。」

この言葉が、深く心に落ちる。

モノをつくるということ。量産ではなく一つひとつを丁寧につくるということ。
私も、モノを生み出すからには、バタバタと制作するのではなく、長く大事に使ってもらえるものを作らないといけないと改めて思った。

最近、その「モノ」がどうやって作られたのか、その背景を知ろうとする人が増えている。
傘はまだまだ使い捨てにされているのが現状だが、彦太郎さんが活躍されていた頃のように
丁寧につくられた傘を購入して、長く大事に使いたいと思う人は確実に増えてくるはずだ。

そのためにCASAにできることは何だろうか。
まずは、このレポートがそのきっかけに少しでもなってくれれば、と思う。

CASA No.000 HOUKO